夜明けの夢


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 その夕方、また車に乗り込むと温泉へ出かけた。少し運転した先に、有名な温泉場があるのだ。硫黄の臭いのきつい温泉は効能も強く気持ちいいので、こちらへ来るときは必ず寄っていた。
 親戚何人かも一緒に出かけた。遥は叔母がみてくれるので、おれは安心して男湯へ行くことができた。べつに遥は一人でも風呂に入れるが、人の大勢来るこうした場所で、まだ幼いのに一人にさせるのはやはり心配だ。
 風呂へ入るのに当然のように服を脱ぎ始めて、ふと隣の隆さんが目に入った。家で仕事をしている割に、腹も背中の筋肉も締まっている。特別大柄ではないけれど、おれよりずっと大きくて肩幅も広い――。
 おれは突然、隆さんを意識してしまった。
(わー、おれのバカ! 男同士なんだから別に躰見たってどうってことないだろうが!)
 意識しないようにと思うのだが、気持ちを鎮めようとすればするほど気になって仕方なくなってしまう。
 これはさっさと入って出た方がいいか、と大慌てで服をロッカーへ押し込み、大浴場へ向かう。
 湯船につかる前に躰を洗うのがマナーだ。鏡の張られた蛇口の前で、入口に積まれていた洗面器に湯を入れて手拭いを浸していると、隣りに人が座った。後からやってきた隆さんだった。
「背中流してやるよ」
 手拭いを取り上げられる。
「あ、いえ、そんな……」
「遠慮しなくていいよ。こういうところへでも来ないと、そんな機会もないだろう」
 無料で設置されているボディソープを既に手拭いへつけて準備した隆さんが、おれの肩を掴んで背中を向けるように促す。触れられたところがカッと熱くなるような気がした。
 支えるように片手がおれの腕から肩を掴み、背中をきつめに擦られる。そんなことがどうにも気恥ずかしくて、されている間ずっとクラクラと目眩がするようだった。
「あ、ありがとうございます。おれもしますね」
 あまりそうされているとおれの神経がもたない。おれは隆さんの手拭いを受け取ると、赤くなっているだろう顔を見られるのが嫌で、顔を合わせないように彼の背中へ回った。
 その広い背中を見て、またしても顔がカーッと熱くなる。実際に触れると、まだ大人になりきっていない自分との体格の差がはっきりと感じられた。そうして、それを意識した瞬間にまたしても羞恥心が襲ってくる。
「あの。もういいですか?」
「ああ、有難う」
 にっこり笑って手拭いを受け取る隆さんに、おれは赤面するのを抑えようと息を詰めた。顔が強張っていただろう、変に思われなかっただろうか…。
 そそくさと躰を洗い終えると、おれはここなら安全とばかり浴槽へ向かった。湯船につかり、ふぅと溜息をついたところで、まだ躰を洗っている途中の隆さんが視線の先にうつる。
(な、なにか違うこと考えよう……)
 意識しないように、隆さんとまったく関係のないことを考えようと試みてみた。
 もやもやした意識の先に、昼間の萩一のことが思い浮かんだ。
(『生きるってのは、しがらみを持つこと』か。そういや失恋して考えたとか言ってたけど、普通そこまで考えるものなんだろうか……)
 考えてみたら、失恋でそういうことを悟るというのも何やら凄い話だ。よほど死にたくなるほど苦しかったんだろうか? それとも、好かれているのを判っていて応えなかったことに罪悪感が残ったり、それだけ自己嫌悪したってことなんだろうか。
 ふと――もしかすると、萩一もすぐには気持ちを言い出せないような相手に恋していたのかな、と思う。そう思うと、なんだかいろんなことが納得できるような気がした。
(…けど、それだけじゃ腑に落ちないこともいっぱいあるよな。まぁおれだってみんな話した訳じゃないし、おあいこなんだけど……。
 う〜ん。萩一が好きな相手って誰なんだろう? 萩一を好きな女の子なら沢山いそうだよな、すごいモテてるみたいだし。やっぱ学校の子かなぁ……)
 日頃使わない頭を使いすぎたのか、なんだか頭がガンガンしてきた。耳鳴りまでする。
(……隆さんは好きな人なんているのかな。まだ若いし、再婚とか考えたりするんだろうか……)
 毎朝のあの夢が、本当ならいいのにと思う。もしもそうだったなら、おれは迷ったりしないのに……。
(でもそんな都合よく行くわけない…かな……)
 目の前がぼうっと霞んできた。心臓がドクドク高鳴っている。
(なんかおれ、結局隆さんのこと考えてるや……)
 そのままズルズルと湯船の中に沈み込みそうになったとき。
「志生!」
 浴槽の外から手が伸びてきて、おれの二の腕をグイッと掴むと湯船から引きずり出された。
「お前何やってんだ!? 茹で蛸になってるぞ!」
「うわ、隆さん!」
 目の前に隆さんのアップがあった。
 俺はいつの間にか風呂でのぼせて溺れかけていたのだ。
「小さい子どもじゃあるまいし、しっかりしろよ」
 言われて、のぼせた熱と違う意味でカーッと顔が熱くなった。とんだ醜態をさらしてしまった。
「あそこ、ドアの手前の小さい浴槽が水風呂になってるから。少し水浴びてからもう出なさい」
「……はい」
 しゅーんと小さくなって頷いた。
(おれってバカかも……)
 ものすごく恥ずかしかった。まともに顔を上げられないまま慌てて言われたとおりに水を浴び、早々に脱衣所へ退散する。
 もう、さっさと出て遥達と待ち合わせている付属設備の休憩所へ行こう。いつも通りにアイスでも食べている間に、この熱も少しは冷めるだろう。
 しかし、まだ着替えている途中で隆さんが上がってきた。どうやらおれを心配して様子を見に来たらしい。
「大丈夫そうか?」
「あ、はい。大丈夫です。すみません……」
 じっとおれを見る隆さんの顔を見返すことが出来ない。おれは視線を斜め下へ向けながら小声で返事した。
「無理しないで、座って休んでるんだぞ」
「え、大丈夫だと思う……けど、そうします」
 有無を言わさぬ様子に、おれは慌てて従うことにした。
 ロッカーの中に何もないのを確認して、出口へ向かう。
「隆さんも、そのままでいると風邪ひきますよ。もう大丈夫だから戻って下さい」
 隆さんは「ああ」と言って浴場へのドアに手をかけた。それを見て、ようやくおれが安堵したとき。
「本当に、大きくなったな…」
 隆さんの呟きが耳に入った。
 え、と思って振り返った瞬間、ずっと避けていた視線が合わさった。隆さんは今までおれが見たことのない、喜びとも哀しみともつかない不思議な表情をしていた。
 しかしほんの一瞬だけで、すぐに視線は逸らされ、隆さんは曇りガラスのドアの向こうへ姿を消した。
「お兄ちゃん!」
 休憩所へ行くと、すっかり甘えっ子になった遥が待ちきれない様子でおれの元へ走り寄ってきた。
「おっ、遥ァ! 綺麗にしてもらったか?」
 小さな頭を撫でてやる。そうしながらも、おれの胸の高まりはなかなか収まらなかった。

 

 帰りの車の中で、おれはいつの間にか眠り込んでいた。今回の旅行は少し疲れるものだったし、温泉につかって多少ほっとしたのかもしれない。
 着いたよ、と起こされる直前に、おれはまた夢を見ていたような気がする。
 大きなあたたかい手がおれの髪を撫で、首筋に触れていた。くすぐったくて首をすくめると、すぐ手は離れていってしまった。
 おれはそれが残念で、じっとしていれば良かったな…と軽い後悔をしたのだった。

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