その晩、昼間の疲れが出たのか遥も隆さんも早々に寝入ってしまった。対しておれは、並べて敷かれた布団の中でその寝息を聞きながら、なかなか寝付けないでいた。
車の中で眠ってしまったのがいけなかったのかもしれない。おれに腕枕されたまま可愛らしい寝顔を向けている遥を見ていて思わず溜息が出てしまった。
眠そうな顔で「ねむくない」と駄々をこねていたのを、腕枕で一緒に寝てやり、話しながら寝かせ付けた。そのままずっとこの体勢だ。
遥は妹としてとても可愛く思っているし、実の兄妹以上に仲睦まじいと言われるのも嬉しい。妹が出来たことを苦に思ったことは一度もないが、時々「困ったな」と思うこともある。今もいい加減腕が痺れてきたが、遥が寝間着にしがみついているため腕枕をなかなか外せないでいる。
これだけ深く眠っていれば、多少力を入れて腕を剥がしても起きる心配はないと思うが、なんとなくそれができない。普段の会話でもこんな感じだが。遥がまだおれより十も小さいせいもあるが、嫌なときに嫌とはっきり言えないな…という反省はある。そんな些細な悩みなど、端から見れば喜びの内なのだろうけれど。
ここは割に標高が高いのだが、気候はそれほど寒くない。うっすらと明るい外を、障子越しに見やる。今夜は美しい月夜だった。
(疲れたら眠れるかもしれない)
おれはようやく決意して慎重に腕枕をはずすと、二人を起こさないよう静かに立ち上がって部屋を出た。散歩でもしてこよう。
軋み音など立てないよう気を付けながら廊下を歩いて玄関へ出る。こんな田舎だからドアに鍵もかけていなかった。
外気に当たるとさすがに少し寒い。おれは両腕を抱えるように組んでゆっくり歩いた。
冷たく澄んだ夜気は、多少冷たくとも気持ちが良かった。砂利道に沿って流れる小川の音と木々の葉擦れの音、時々遠く山の向こうから聞こえてくる鳥の声らしきものの他には何も聞こえない。
(静かだ)
静謐という言葉が思い浮かぶ。別段おれが生活している場所はそれほど都会でもないが、それでもこの辺りはまったく別の世界だと思わずにはいられなかった。
気持ちが自然と綻んでいくのが判る。街灯もほとんどない暗い道を星明かりを楽しみながら歩くなど、普段はまず出来ないことだった。
そうして歩いてまだいくらも経たないとき、
(あれ…!?)
おれの後ろから、何かが近づいてくる気配がした。砂利を踏む微かな音――人のようだが、一体誰だろう。
なんとなく振り向くのが怖かった。だが確かめないのはもっと怖ろしい。
つい早足になりながら、おれはそっと後ろを伺い見た。そうして遠くに見えるまだ小さな人影に、ハーッと安堵の溜息を吐いた。
どんなに暗くても遠目でも、見間違いようがない。隆さんだ。おそらくおれを追ってきてくれたのだろう。
おれは立ち止まって隆さんを待った。
互いの表情が判るところまで近づくと、隆さんはおれへ向かって照れ隠しのように苦笑した。
「出ていくのに気づいて、気になってな、つい」
「すみません、起こしちゃいましたね」
そう返しながらおれは、隆さんは狸寝入りではないにしろ、完全に寝ていたわけではなかったのだろうと気が付いた。案の定、隆さんはその通りのことを告げた。
「いや、実は寝入ってたわけじゃないんだ。なんだか落ち着かなくてな、いつもは起きてる時間だったし、ちょっとうつらうつらしてる程度だったんだ」
「ああ、そういえばいつもだったらお仕事されてる時間ですね」
おれは納得し、ちょっと期待していた自分を恥ずかしく思った。
おれが隆さんを想うように、隆さんもおれを想っていてくれたなら…という願いが強いせいで、過剰に意識しすぎていたかもしれない。
なんとなく並んで歩いた。昔のこの辺りのこと、母のこと、他の叔父さん、叔母さん達の昔の話などを聞いた。
当たり障りのない会話をし、話を聞きながら、おれは意識の半分で違うことをぼんやりと思い出していた。それほど昔のことでもない、おれが隆さんを好きだと自覚し始めた頃のこと…。
それ以前から強い好意は持っていたが、恋だと自覚するほど意識し始めたのは、あれがきっかけだったように思う。
そのまま近所の中学へ進めばよい義務教育と違い、高校は受験をしなくてはいけない。それまで特に学習塾へも習い事にも通わずのんびりしていたおれは、学校から帰るとほとんど毎日塾へ通うようになり、俄然忙しくなった。隆さんに引き取られてからそれほど経たず、環境の変化から来るストレスもあったかもしれない。
急激な変化に疲れ、憂鬱になったおれは、塾で出来た悪友に誘われるまま、帰宅前にほんの少しのつもりで夜の街へ遊びに出かけた。ちょっと買い食いをしてゲームセンターへ寄って、それだけなのに気づくとすっかり夜中になっていた。
慌てて最終バスに飛び乗り、そのままどこかへ行ってしまいたいような重い気持ちで帰り着いた。おそるおそる玄関を開けたおれを、待っていた隆さんは有無を言わさずいきなり殴りつけたのだった。
友達との喧嘩を除き、おれはこのとき生まれて初めて人から殴られた。一人っ子として甘い父母に猫可愛がりされて育ったおれは、それまで親にも殴られた経験がなかった。隆さんは厳しい人だといってもおれに対してはいつも明らかに贔屓して優しくて、当然そんなことをされたのは初めてだった。
叱られるだろうとは覚悟していたが、まさか殴られるとは思ってもみなかったおれは、痛みや恐怖を感じるより驚きで茫然としてしまった。だが、見るとおれを殴った隆さんのほうがよほど痛そうな顔をしていた。
『どこをほっつき歩いてたんだか知らないが、そんな下らないことで、もしかすると志生が一生傷ついて取り返しのつかないことになるかもしれない…。そう思ったら、なんだか急にカーッとしてな』
後で落ち着いてから、そう隆さんは言っていた。あの時の表情は今も忘れられない。
この人は、もしかすると実の父親以上におれのことを想ってくれているかもしれない。そう感じたとき、おれの心の奥にぽっと小さな火が灯ったように思えた。
多分それからだ、隆さんをことさら意識し始めたのは……。
義理のだからという意味ではなく、隆さんはおれにとって親とは違うものだ。無論兄弟でもないし、友達とも違う。
何と呼べばよいのか判らないが、誰よりも大事でずっと側にいて欲しい、自分を一番に想っていて欲しい人――。
おれは横を歩く隆さんを見上げた。気づいた隆さんが訊ねる。
「どうした、寒いのか?」
隆さんの太い腕がおれの肩へ回り、引き寄せられる。
「俺も上着、持ってこなかったから……」
おれは小さく頷き、彼に軽く躰を預けた。
「冷えたなら、そろそろ帰るか?」
「…いえ、もう少しだけ……」
静かに首をふったおれを、隆さんは「そうか」とだけ言った。
そうして束の間、静寂の心地良い月下の森を二人で歩いていた。