再び夜が明け、また夜が来る――
おれは台所で湯が湧くのを待ちながらコーヒーミルを回していた。これからコーヒーを炒れ、仕事をしている隆さんの元へ持っていくつもりだった。
今朝、母も葬られた先祖の墓碑へ再度手を合わせてきた。昨日の墓参は親戚一同で行ったのでゆっくり拝む余裕がなかったこともあるが、それよりも気持ちの整理を付けたかったからだ。
おれは迷っていた。この気持ちを否定することはもはやできない。そのまま秘めていることさえ苦しいほどに、想いは強く脹らんでいた。
でも、拒絶は怖い。もし知られることで嫌悪されたら、おれはこの先どうしたらよいのか判らなくなりそうだ。この家にいることさえ辛くなるだろう。
『後悔だけはしないようにな』
萩一の言葉が思い浮かぶ。
結果に振り回されて後悔するくらいなら、たとえ希望があっても口にしない方がいい。それでも、どうしてもこの気持ちを知ってもらいたい、相手を傷つけてもそうせずにいられないというほどの決意があるのなら、考える余裕などなく思いを告げることになるだろう。
今のおれは一体どの状況にいるのか、自分で自分を掴みかねた。隆さんを前にしているとすぐにも言葉がついて出そうになるが、逆に頑として言えないようにも思われた。
どちらにしろ、言わなければ良かったと後悔するような安易な行動だけはしたくない。結果が拒否であったとしても、苦しくても毅然として今まで通りの態度をおれは貫けるだろうか?
「……どうしよう……」
おれの迷いに応えてくれる声はない。おれは自分で自分を決めなければならない。
「……母さん、ごめん」
そうしておれは気持ちを固めた。
ドアをノックすると、すぐに「どうぞ」と返事があった。おれはコーヒーカップを乗せた盆に注意しながら部屋へ入った。
「お仕事中すみません。宜しかったらコーヒーでもどうですか?」
煙草を吸わない隆さんが唯一中毒しているコーヒーの馥郁たる香りが部屋一杯に満ちる。隆さんは嬉しそうに有難うと言って手を伸ばした。
盆の上には他に、あり合わせで作ったサンドイッチともう一つマグカップが乗っている。
「もしお邪魔でなかったらおれもいていいですか?」
大丈夫と思いつつ一応訊いてみる。
「ああ、ちょうど一区切りついたところだしな。…サンドイッチか、嬉しいね。小腹が空いたところだったんだ」
そんな言葉の一つ、笑みの一つが胸に沁みるように嬉しい。
(本当におれは言ってしまうつもりなのか?)
今更ながらためらいが生まれる。
そのときふと、隆さんの机の上に飾られた写真が目に留まった。
蝶番で見開きになった写真立てに飾られた、二枚の写真。一枚はおれがこの家で暮らすことになったとき遥と隆さんとおれの三人で一緒に撮ったもので、もう一枚は昔の母と隆さんが写っていた。
今回田舎へ行って、母や亡くなった伯父、伯母、いとこ達の写真が数多く飾られているのに気づいた。あの災難の直後にはなかったものだ。数年経った今になって、ようやく冷静に見られるようになったということなのだろう。
しかしこの隆さんと母と二人の写真は、母が亡くなるずっと以前からあったのをおれは知っていた。――独身を通したがっていた隆さんが結婚したのが母の薦めだったことも。
隆さんに引き取られてからも、なんとなく「父さん」とは呼ばずに以前からと同じように「隆さん」と呼んでいた。隆さんもそれを望んでいるように感じたためもある。
ふいに、それまで思いもしなかった疑問が湧いた。関係ない、そこまで気にする必要はないと思いつつ、一度疑ってしまうとどうにも不安になる。ましてそれは、以前もチラッと考えたことがあった。――母の兄弟は皆、互いを名前で呼び合っていた。母さんも彼を「隆」と呼んでいた……。
隆さんにとって、母はどんな人だったんだろう。思うと同時に、おれはそれを口にしていた。
「優しくて、可愛い人だったよ」
隆さんは愛おしいものを懐かしむ眼差しをして言った。
「姉に向かって可愛いなんて、普通は言わないのかもしれないけど。楚々として、別に目立つところがあったわけでもないに何故か目立ってね。あんな田舎にいてさえ、いつも取り巻きに囲まれてて、それでいて周囲に反感を買うようなことがなかった。考えてみると不思議な人だったね」
遠い目をして語る隆さんに、おれは母へ嫉妬した。
「おれ、おばさん達に母さんに似てるって言われました」
おれの言葉に、隆さんが今気づいたようにおれを見た。
「ああ…言われてみると確かに似てるね。いや、俺も似てるとは思ってたよ、笑った目元なんて特に」
「でもおれは優しくなんかないし、そんな目立つような華やかなところもない」
おれはそう言わて何故だか無性に腹が立って、荒い語気で言った。――いや、理由は判っている。母と比べられるのが嫌なのだ。
それは隆さんにも伝わったのだろう。
「君は息子といっても違う人間だし、男の子だしね。それは全く同じなわけがないよ」
判っていたつもりのことも、隆さんの口から言ってもらえると激高しかかった気分がスッと収まる。落ち着いて素直な気持ちになれた。
「似てるって言われておれ、複雑な感じがしたんです」
「うん?」
「みんなが口を揃えて誉める人に似ているって言われるのは、嬉しくないわけじゃないんです。良く見られたいし、父さんよりは母さんの方がずっと好きでしたし。でも、おれは母さんになりたいわけじゃない。違う人間として、おれ自身を見て欲しいと思って」
「それはまあ、そうだろうね」
隆さんは頷く。多分、おれの内心は察してくれていると思うのだが、おれは少しでも正確に伝えたくて、もどかしい気分で話し続けた。
「なんて言えばいいのか……みんな、おれを母さんに似てるって言いながら、おれのなかに無理矢理母さんの面影を見ている気がしたんです」
「……」
「それで伯母さんたちが少しでも気分が和むっていうんなら、それでも別に構わないとは思ったんですけど…。家も遠いし、一緒に暮らすんでなければ実際とギャップがあったり誤解していたって、何か害があるわけでもないし、互いに悪い気分じゃないんですから」
「良い考えだとまでは言わないけど、真理だね。互いがいい人間関係を築けるなら、多少の誤解は無理に解くことはないと俺も思うよ」
「はい、おれはそう思ったんです。でも――そう思われると困るというか、嫌な相手もいるわけです」
「少しの誤解もされたくない相手、かな」
「そう、そういう人……」
そこまで言って、おれはまた躊躇った。この感情を口に出していいものなのだろうか。おれはただ単に母に嫉妬しているだけで、お気に入りの叔父に対する独占欲にしか過ぎないとは言い切れないか?
「それでもしかしてコーヒー炒れてきてくれたのかな?」
「えっ!?」
内心がばれたのかと勘違いしかけたが、すぐ誤解だとわかった。
「誰か、キミ姉さんに憧れて志生にダブらせてる子でもいたの? そうすると従姉妹の子かな?」
「それは違います」
おれは即座にきっぱり言い切った。そんなおれに隆さんは苦笑した。
「ま、少なくとも俺は志生のことを誤解してるつもりはないけど」
…欲しかった言葉を、隆さんがくれた。他の誰でもない、おれを見てくれている。そう思うと不思議と力が湧いてきた。
――たとえ玉砕してもいい、隆さんの心に母とは違うおれ自身を刻みたい…。
決心して顔を上げると、おれは真っ直ぐに隆さんを見つめた。
「おれ、隆さんにはおれと母さんを重ねて見られるのは嫌なんです。おれ自身を見て欲しい。おれ――隆さんが好きです」
「…………」
隆さんは驚いたように微かに目を見張ると固まってしまった。
おれは隆さんが何か反応をくれるのを待った。好きの意味が、日常生活で使われるような意味合いでないことは伝わったはずだ。彼はどんな答えをくれるだろう?
消えたい…いっそ死んでしまえば楽になれるだろうかとまで悩み、この感情を嫌悪したはずだというのに、今更ながら自分の欲に呆れてしまう。それでも、もう迷わない。この人を手に入れるためなら何でもしよう。――沈黙する隆さんを前に、おれは再度決心した。
そうしておれが息を詰めて見守る中、ゆっくりと隆さんが口を開いた。
「俺は……正直、ずっと君を可愛いと思ってた。俺はずっと姉さんに憧れてて、初めはその姉さんに似てるから惹かれるのかと思ったこともあったけど、年々…成長していくのを見るうちに、気持ちが抑えられなくなってきて……」
いつも毅然としている隆さんが、怯えるように語る。おれは言い様のない喜びでいっぱいになった。
「おれ、ずっと疑問に思ってたことがあるんです。ただの夢なんじゃないかとも思ったんですけど、もしかして…」
「それはきっと、夢じゃないよ。――毎朝のように、志生の寝顔を見ていたよ」
その一言で、おれのなかの何かがポンと弾けた。おれは座っている隆さんの上からギュッと首筋に抱きついた。驚いた隆さんがとっさにおれを離そうとしたが、かまわず力を入れる。
「…こんなことは間違ってる。しちゃいけないことだ」
「どうして? 隆さんはおれを欲しいと思ってくれないんですか?」
おれは一度少し躰を離し、困った顔の隆さんを見つめて強気で訊ねた。
「隆さんが、男で甥で義理でも息子のおれなんかに想われるのが我慢できないくらい嫌だっていうんだったら、おれも諦めて黙ってます。気持ちを消すことはできないと思うけど。でもそうじゃなくて、隆さんもおれのことをそういう意味で、少しでも想ってくれてるんだったら……」
その先の肝心の言葉をおれは言うことが出来なかった。隆さんの手がおれの顔へ伸び、引き寄せられておれは咄嗟に目を閉じた。
唇へ暖かい感触を受け、ようやくキスされていることに気がついた。驚いてパッと目を開けると目の前に隆さんのアップがあり、それでまた驚いて目を瞑る。
「……ん…っ……」
思いがけず執拗におれを求めた唇が離れる頃、おれはくったりと床に膝をついていた。
「隆さん……」
ぼうっとして見上げると、イスから下りた隆さんはおれの前にしゃがみ込んでおれを引き寄せた。そのまま彼の広い胸に包み込まれる。
「自分の気持ちに嘘はつけないな」
力強く抱きしめられ、隆さんの声が密着した胸を通して肺に響いた。
「…おれ、あの世にいる親のこと、泣かしてるかもしれないけど……」
「それを言ったら俺の方だろうな。なんたって、息子が孫に手を出そうっていうんだから」
目を見交わし、苦笑した。
――伯父、伯母、友人、妹、父母……
いろんな人に関わり頼みにして生きている限り、おれの生き様はおれ一人だけの責任ではありえない。萩一の言っていたことが胸に重くのしかかる。
それでもおれは、この手を取る。選択できるような余裕は少なくとも今のおれにはないし、ようやくさしのべられたこの手に応えられなければ、おれはどうにかなってしまうだろう。
「おれ、隆さんを好きでいていいですよね」
おれの言葉に隆さんは微笑み、頷いた。
隆さんは立ち上がっておれの手を取ると、おれのことも立ち上がらせた。再び顔が近づいてくる。うっとりと目を瞑るとすぐ、温かいもので唇を塞がれた。その優しい感触におれの心はたちまち溶かされていった。
「……おいで」
隆さんがおれの肩を抱いたまま、隣室へと通じるドアを開けた。
ここは隆さんの仕事部屋、すぐ隣が寝室で、部屋から部屋へすぐ行かれるようドアが取り付けられていた。
(遥がまた心細がっておれの部屋へ来ても、おれがいないと可哀想だな…。なんでいなかったのかも説明に困るし、遥が一人で平気になるように、何か考えないと……)
寝室に入る前に、ちらりと頭の隅をそんな考えが過ぎった。だが、すぐ横でおれを愛しげに見つめてくれる瞳と合って、たちまち彼以外のことは忘れてしまった。
たとえ世界中の誰一人認めなくとも、他の人間全てに嫌悪され軽蔑されることになっても―――それでもおれは、この人が欲しい。
今日この時、この手を取ったことをおれは後悔しないだろう。
−Fin−