第 一 章 (壱) 〜 漣 〜
放課後の開放感に満ちたざわめきの中を、軽い緊張を覚えながら歩く。この先に待ちうけるものを俺はもう知っていて、それへの期待に胸をわくわくと膨らませていくこの感覚が好きだ。
これから部活が始まる。俺は水泳部に所属し、二年で夏の大会のレギュラーになった。
ここ煌稜(こうりょう)学院高等部は、初等部から大学部までエスカレーター式の典型的なお坊っちゃん学校ではあるが、規律の厳しさでは有名で、部活はどこもそれなりに強い。水泳部も俺が望む程度には強く、特に施設は中等部と合同ではあるが季節に関係なく使える室内プールがあるのが魅力だ。
水泳は団体戦はあっても結局は個人競技だ。特別チームが強い必要はない。俺は自分を磨くために、ここの設備に惹かれて中等部から編入した。
それだけ他の奴等より気合いは違うつもりで、部活も一番にプールへ出ることが多かった。だからレギュラーになったときも不遜ながら当然に思ったものだった。
だからといってそれに驕っていては、すぐにも俺に取って代わる奴が出てくるだろう。少しでも多く練習しようと、俺はホームルームが終わるとすぐプールへ向かった。
更衣室にはまだ誰もいなかった。当然一番乗りだろうと、少々子どもっぽい優越感に浸りながら着替えを済ますとプールへの扉を開ける。
そこで水音を耳にして驚いた。
――…パシャ…ッ……
ほっそりした肢体の少年が、まるで魚のように水と戯れていた。
水面に漣(さざなみ)がたち、窓からの淡い採光で反射した飛沫(しぶき)がきらめく。
水の中にいるのが楽しくて仕方ないといった泳ぎだった。いや、泳ぐというより水が彼に従って、彼を運んでいるようにさえ見える。
手足の動きに飛沫が跳ね、そのきらきらした輝きを彼がまとうと、ただの水しぶきが不思議な光沢をもって映った。
しなやかな白い肢体の見せる、実に優雅で無駄のない動きに、俺は目を奪われた。
彼は一度プールサイドまでたどり着くと、俺に気づいて潜水でこちらへ近づいてきた。
彼がすぐ足先で顔を覗かせた瞬間、俺はどきりとした。
妙になまめかしく見えるほど白く透けた肌――水泳帽からこぼれた黒髪さえ妖艶に感じられる。
濡れた顔から水滴がしたたり落ち、口の中へ入り込もうとする滴を拭うように彼の細い指先が唇を辿る。それだけの動きに、俺は何やら落ち着かない怪しい気分になりかけて戸惑った。
「こんにちは」
「……あ、ああ」
男相手に何を興奮しているんだ。――そう思うが、感情が意のままにならない。俺はしっとりと耳に心地よい彼の声に、更に硬直した。
「今日は水泳部、あるんですよね」
「あ……ああ。この後みんな来る、けど……」
まともに話すことすら出来ない。そんな自分をみっともないと思う余裕さえなかった。
「おれ、今日から転校してきた一年の皆川清樹(みなかわ・せいじゅ)です。水泳部の先輩ですか?」
「あ、うん。二年の内海和馬(うつみ・かずま)だ」
「和馬先輩」
いきなり名前で呼ばれたことと、綺麗な顔でにっこり微笑まれ、情けないことに俺の心臓は一気に高鳴った。
「ここって部活前に使っちゃいけない決まりなんてないですよね」
「え、うん、ない…けど……」
次の瞬間、清樹は見る者を惹きつけて離さない、実に魅惑的な微笑を浮かべた。
「これから宜しくお願いしますね」
それだけ言うと、清樹はチャプンとまた水の中へ戻っていった。
まるで誘うようにうっすらと半眼を開け、俺を見ながら背泳で遠ざかっていく。思わずふらふらと水に飛び込みそうになり、俺は慌てて足を止めた。
(なにやってんだ、俺は。まずシャワーを浴びないとダメだろう)
だが、どうしても清樹から目を離すことが出来ない。
俺は他の部員がやってくるまでの間、清樹の泳ぎにひたすら茫然と魅入っていた。
部活前から熱心に泳いでいる見知らぬ少年のことを、俺は後から来た部員たちにいちいち訊ねられた。一年の転入生だと答えると、皆一様に驚いた。
6月という半端な時期に転入してくる者など、これまでの俺達にとっては前代未聞のことだからだ。
初等部から大学部まで続くこの学院では、中等部、高等部へと校舎が移り変わる際に編入してくる外部生さえ珍しい。まして転入生など滅多にいないのだ。
ちなみに煌稜は金持ち学校なだけあって門戸は狭い。編入ですらなく転入してきたということは、相当な学力に加えて財力もあることを意味している。初等部くらいならまだしも、それだけの条件が揃っていなければ、学校側が転入を認めるはずがないからだ。
よく金持ちはがめつくて持てるものに満足できないようなことを言われるが、少なくともここのお坊ちゃん達には当てはまらない。故意に近づいてどうこうなどと考える輩はいないだろうが、興味をかきたてられてつい質問攻撃をしたくなるのは自然なことだろう。
部活の時間が近づき人が集まってくると、水から上がった清樹の周りにさっそく人垣が出来た。
間近で見る清樹の水際だった容姿に、誰もが息をのんだ。声をかけ難いほどの白皙(はくせき)に、やや遠巻きに見守られていた清樹だが、すぐに気づいて人なつこそうな笑みを浮かべた。それでようやく皆は清樹へ近づけたのだった。
「前はどこに住んでたの?」
「なんで今になって?」
皆の興味は主にそこに集中していた。
「先週まではF県の山奥の村に住んでたんですけど、ダムができて村が沈んじゃって。その話が決まったとき、本当はもっと早くこっちに越してくる予定だったんですけど、どうしても離れ難くてギリギリまでいることにしたんです」
「じゃ、高校もそこの学校に行ってたんだ?」
「そうです。一応この学校には4月から入る手続きをしてたんですよ。休学届けを出して、でも一応高校には行ってたからその分の出席日数は加算されてるっていう、ややこしいことになってますけど」
「そんなことできるんだ?」
「さあ。ここの先生が鷹揚な方だったんじゃ?」
清樹の家は特別旧家でも資産家でもないようで、彼が転入できた理由は誰にも見当がつかなかった。おそらく編入試験を受けたときの成績がよほど優秀で手放し難く、変則的な転入が許されたのでは……という憶測で、この件は一旦収束した。
「家族は何人なの?」
「今は一人です。両親と妹がいますけど、故郷からあまり離れたくないって言って、結局元の村の割と近くに住んでた親戚の家に厄介になってます。新しい家と仕事が見つかったらまた移動するんでしょうけど、おれはとりあえずせっかく受かったのにもったいないってのと、このプールがいいなぁって思ってたんで、一人で来ちゃいました」
清樹はそう言って軽く舌を出して苦笑した。他の男がやったらいただけない仕草だっただろうが、清樹がやるとチャーミングで、どこか色っぽくもあった。
「寮には入らないの? うちの生徒は遠方からの入学者も多いけど、ほとんど寮に入ってるよ。独身の先生も何人か入寮してるから、勉強みてもらえたりするし」
「うーん、4月からだったらそうしてたかもしれないけど、今からだとちょっと気後れあって。ってまあ、一番の原因はおれが食べ物の好き嫌いが激しいせいだけど」
意外な一面に周囲から笑いがこぼれた。
「プールってもさ、他の部はまったく考えなかったの?」
「俺、泳ぐの好きなんですよ。でも軽い紫外線アレルギーで、外だとあんまり泳げなくて。その点ここは室内だから、そういう気兼ねはいらないでしょう? 前に噂で聞いてから、ずっとここで泳いでみたいって思ってたんですよ。ずっと村にいるもんだと思ってたから、まさか本当に来れるとはちょっと前まで考えてもみなかったけど」
清樹も俺と同じで、この室内プールに惹かれてやってきたのだ。俺はその一事で彼に強い共感を覚えた。
そこへ委員会で遅れた部長の倉橋先輩がやってきた。
「なにを固まってるんだ? 柔軟は済んだのか?」
気づくと部活開始時間はとうに過ぎていた。みんなもっと話したそうだったが、仕方なしに一時解散してそれぞれのやることをしに行った。
欠席者を除く全員が着替えとシャワーを済ませ、柔軟が終わったところで部長が部員を集めて清樹の紹介を行った。
「入部届の出ていた皆川君…だね」
「はい。皆川清樹です。宜しくお願いします」
清樹は笑顔で皆に向かってお辞儀をした。先ほど二人きりの時に見せた笑顔とはまったく違う、普通に好印象を与える表情だった。
「いきなりだけど、君の得意は何?」
自他ともに厳しいことで評判の部長だ、さっそく鋭い質問が入る。
「得意って言えるものは潜水になるんですけど……」
「クロールか背泳、平泳ぎ、バタフライの中では?」
「それだと普通にクロールかな」
「内海!」
「は、はいっ!?」
いきなり名前を呼ばれて驚いた。自然に背筋がシャキンとする。
「ちょっと一緒に泳いでみろ」
「え、競争するんですか?」
「皆川のタイムを測るだけだが、一人より誰かと一緒の方がやりやすいだろう」
確かに一人で泳いで注目されるより、競争するような形で泳いだ方が緊張の度合いは少ないかもしれない。
「なるほど。わかりました」
俺の得意は背泳だが、クロールはその次に得意で、部内でも部長・副部長に次ぐ速さだ。これは負けられないと気合いを入れた。
だが結果はあまりにも一方的だった。
先ほど見せた泳ぎの印象は、一緒に泳いでみて更に強くなった。清樹はまるで魚だ。まったく水の抵抗を感じさせない泳ぎなのに、必死で水を掻いている俺をどんどん引き離していく。
どう頑張っても勝つどころかみるみる距離を離されていくことに、俺はしまいには諦めどころか喜びを強く感じてしまった。
世の中に、こんな奴がいるのか…と。圧倒的な力というのは、嫉妬さえ感じさせないものらしい。
「完敗だったよ」
タイムを測るだけとは言ったが、俺は競争のつもりだったし、周りもそう思っていただろう。俺は50メートルを泳ぎ終えると、隣のコースで俺のゴールを見守っていた清樹へ握手の手をさしのべた。
「有難うございました」
清樹はシンプルに一言だけ言い、俺の手を握り返した。
まさに感嘆、の一言だった。
その後清樹は結局全ての種目を一通り泳がされた。他の部員にも請われて競争したが、誰も清樹に勝つことは出来なかった。
おそらく俺は夏のレギュラーから降ろされ、代わりに清樹が出場することになるのだろう。ぼんやりとそんな考えが脳裏を過ぎったが、不思議と残念な気はしなかった。
むしろ、会場の人々が清樹の泳ぎを目にして驚く姿を思い浮かべると、くすぐったいような笑いがこみあげて楽みでさえあった。
――――まだ、この時には――――。
清樹はあっという間に高等部中の有名人になった。
中間テストが終わったばかりなので授業からの噂だが、やはり清樹は成績も抜きん出ているらしい。転校生への好奇の目は、早々に感嘆と尊敬の眼差しへと変わっていった。
学年を問わず清樹はもてた。――などと言うといかがわしい感じだが、実際にその通りなので他に言いようがない。
煌稜は男子校とあって、決して多くはないがその手の噂は時折耳にした。しかし清樹に対する噂はあまりにも他のそれとは違いすぎていた。
清樹と同じ一年の誰それが告白したとか。2年のあるグループが清樹を呼び出して邪な行為に及ぼうとしたとか。3年の誰かれが思い誤って清樹をナニしようとして通りがかりのクラスメートに取り押さえられたとか。
果ては教師まで…ときては、あまりにもできすぎている気がしたが、清樹のあの妖艶な笑みを目にしていた俺には、それでも少なすぎるように思えてしまった。
そんな噂を知らなくとも、清樹が常に人に囲まれているのは一目瞭然だった。
どうやら清樹は授業に出るより先に部活に出ていたらしく、生徒で最初に会話をしたのは俺らしい。そう聞いてから俺はなんだか自分が清樹にとって特別な人間のように思われて、そうした噂や清樹に関わる者のすべてが次第に不快に感じられてきた。
そのくせ自分が話しかけられると凄く嬉しくて、その後もずっとうきうきした気分が続く。
俺は一体どうなってしまったのだろう。
(あいつは男で、ただの後輩だ)
そう自分に言い聞かせても、どこか虚しかった。
俺が何を望もうと、実際本当にその通りなのだから――。
抜きん出た容姿というならば、他にも綺麗な少年はいる。だが清樹の人気はそれだけのせいではない。何をやらせても充分以上に出来るのが嫌味にならないほど、清樹は妙に人を惹きつけるのだ。
その魅力が何なのかは、清樹に惚れた側の俺には判断できない。彼のどこがいいのかと訊かれたら、返答に窮してしまう。
ただの綺麗な天才少年だったら、そこまで多くの人間が清樹にほれこむことはないだろう。彼の案外に人なつこい屈託のなさがそうさせるのか、肌を見せてさえ性別を感じさせない危うい均衡の肢体に、視線のみならず魂まで奪われるのか……。とにかく清樹の周りには人が集まる。蜜に群がる蝶のよう、という形容がまさにぴったりなほどに。
そうして俺も、そんな蝶の一人だった。こんなに気が狂いそうなほどその姿を目にし、見つめ返して欲しいと望むなど……。
俺のいないところで微笑んでいる清樹を見ると、その笑顔を眩しく思うと同時に切なくなる。
一方通行の独占欲。なんて醜く滑稽なんだろう。
「和馬先輩」
そう呼ばれるたび、俺は苦労して自分の本心を心の奥へ追いやった。
――あの白い喉を吸ってみたい。滑らかな肌に触れ、彼の喘ぎを聞いてみたい……。
醜く邪な情欲を悟られないように……。
(こんな感情、どうせ一時のものだ。いつか忘れられる……)
そう己に言い聞かせることさえ虚しかった。
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