第 三 章 (壱) 〜 飛沫 〜
まるで夢のようなめくるめく一夜が明けると、どういう訳か、俺は起き上がれなくなっていた。
まるで丸一日走り続けたように全身がだるくてどうしようもない。寝返りをうつのも億劫なほどだったが、学校へ行かないわけにもいかないと無理に立ち上がろうとしたら、ベッドから降ろした足が震えてちっとも躰を支えてくれない。勢いをつけたら大丈夫だろうかとエイッと立ち上がったら、ガクガクと膝が笑ってそのまま尻餅をついてしまった。
「なにやってんだ、お前?」
ルームメイトの青柳が呆れたように俺を見ていた。
「なんか…だるくて……」
俺はふいに昨夜の狂態を思い出し、青柳に知られてしまったのではとドキンとしたが、どうもその様子はなさそうだ。
不思議なことに、あれだけのことがあったのに暴風雨で濡れたはずの窓辺はなんともない。あんなに声を出して激しく睦みあっていたにも関わらず、青柳にもまったく知られていないとは。
まるで夕べのことが本当に夢であったかのようだ。
「お、良かったじゃん。もしかして、ようやっと眠くなったか?」
「眠いのもあるけど、そういうのとも違くて……」
まるで俺の周りだけ重力が変わってしまったように躰が重い。喋ることさえ億劫だ。
「最近熱かったから、夏バテも起こしたのかね?」
今まで具合の悪い姿など見せたことのない俺に、青柳は珍しそうに首を傾げた。
これでも部活でかなりの運動量をこなして鍛えている身だ、ちょっとやそっとのことでバテたりしない。体力と健康には自信があった。
「このだるさは何か、そういうのとは違う気がする……」
俺は口の中で呟くように言うと、起き上がるのを放棄してそのまま床に寝転んでしまった。
「おいおいおい! 寝るならベッド戻ってくれよォ。病欠ってことで連絡しといてやるからさ」
俺は青柳の助けを借りてなんとか布団へ潜り込むと、その日は一日中眠って過ごした。
激しい疲労にも関わらず眠りは浅く、俺は幾度も意識と無意識の間を漂った。
夢の中でいろんな人物が出てきて、俺と清樹のことをあれこれと好き勝手に話し合っていた。どんなことを言われたのか覚えてはいないが、何かとても哀しく淋しい気持ちがしたことだけ覚えている。
(そういえば)
夕方、大分すっきりして今度こそ本当に目覚めてから、俺はふいに思い出した。
確か倉橋部長や堀井達も、清樹とした翌日は休んでいたと言っていなかったか?
(なんで清樹とするだけで……)
幾度も精を受け入れさせられた清樹があんなに元気なのに、何故俺の方はこんなに消耗しているのだろう。している最中も、まるで清樹に精気を吸い取られていくような感じがしたものだが――。
(まさか、な……)
人は食事からカロリーを得るものだ。点滴などの方法もあるが、まさか身に受けた他人の精からエネルギーを作るなんて真似ができるはずがない。
確かに清樹のあの現れ方も去り方も、到底通常の人間とは言い難いものではあったが――。
(俺が疲れてたから、変なふうに断片だけ記憶に残ってるんだ、きっと。清樹はここを知っているし、男子寮なんてそれほど警戒もしていないから潜り込むのは容易(たやす)いだろうし…)
異様な疲れが何故なのか気にかかる。風邪やそうした病気ではなさそうだし、後遺症のような物も感じられない。本当に、ただ激しく疲れただけなのだ。
だからこそ、気になって考えずにはいられなかった。
俺は浮かんだ妙な考えを打ち消そうと、なんとかして納得のいく答えを見つけようと必死で考えた。そうしながらも、自分にとって嫌な結果にならないように、無意識に都合の悪い事実は排除して考えようとして、次々と湧いてくる疑問を打ち消しては袋小路にはまっていった。
――あれだけ騒いでいながら、何故青柳は何も気づいていないんだ?
――あの暴風雨の夜中に、清樹のアパートからバスで二十分かかるここまで、車もなしに清樹は一体どうやって辿り着いたのか?
――清樹は何故あんなお伽噺をしたんだろう…?
全てが同じベクトルを差していたが、俺はその可能性を必死で消去し続けた。
翌日、それでもまだぼんやりしていた俺の疑問がはっきり確定された。
昨日練習できなかった分しっかり練習しようと、俺ははりきってプールへ向かった。最近皆に合わせて遅めに来ていた清樹だが、もう俺を避ける理由もないだろうし今日は早く来るだろう。
だが清樹はなかなか来なかった。次第に部員が集まり始め、どうしたんだろうと思う内に部長が部活開始を宣言した。
「あの、部長」
俺にとっても怖い部長だが、思いきって訊いてみることにした。
「皆川は今日は休みですか?」
「何だ? 宮川だったらあそこにいるだろう」
「いえ、そうじゃなくて」
部長の眉間の皺は怖かったし、清樹が部長とも関係があったことを考えると非常に聞き辛かったが、俺は頑張って踏みとどまった。
「皆川清樹です。今日来ない理由とか、何も聞いてませんか?」
「なに? 誰だって?」
部長の表情はやや和らいだが、代わりに怪訝そうな顔をされた。
「そいつの話は聞いていないが。新入部員か?」
「え、何言って……」
俺は慌てた。フルネームを言っているのに聞き損じるということはないだろう。どうして部長は知らないフリなんかするんだ!?
「とにかく俺はそうした話は聞いていない。入部希望だったら来たいときに来るだろう。大会が近いんだ、お前は自分のことに集中しろ」
「え、大会って……」
(俺はとうにレギュラーから外されたはずじゃ……)
思ったが、最後まで言うことは出来なかった。
何かがおかしい。それだけは判った。
部活中、部長や監督の目を逃れてそれとなく部員達に清樹のことを聞いてみたが、誰もが清樹を知らない顔をする。
「誰だそれ?」
「お前、なに言ってんだよ?」
揃って不思議そうな顔を返されることに、俺は強い焦りを感じた。
(――調べなければ)
俺はどうしようもない焦燥感に駆られながら、部活の終了時間を待った。その日の泳ぎは最悪で、何度も監督から叱責を受けた。
下校時刻ギリギリだったが、俺は職員室へ飛び込んだ。
清樹の担任は、確か西山教諭だ。彼は運良くまだ職員室に残っていた。
「先生、今日は皆川は休みでしたか?」
西山教諭は担当していない生徒にいきなり話しかけられて戸惑った顔をしたが、それよりも俺の言ったことの方が気になったようだった。
「えっ、皆川君? …って?」
そう返される予想はしていた。だが、実際に部活以外でもそうした反応を示されたことに、俺は内心かなりな衝撃を受けた。
「皆川清樹って、先生が担任じゃありませんでしたか?」
「いやあ、その子は俺のクラスじゃないなぁ。ええと、聞き覚えがないような気がするんだけど……」
「すみません、ちょっと出席簿を見せて頂くわけにはいきませんか?」
「出席簿? それくらいなら別にいいけど…。あそこにかかってるから」
「判りました。お時間取らせてすみませんでした」
俺は職員室の壁に紐で括られた黒い出席簿の中から清樹のクラスの物を探し出すと、皆川の名前を探した。
(……野上、前田、武藤……、皆川がない……)
そんなことがあるものだろうか。
もしかすると本当にクラスを間違えたのかもしれない。俺は両隣のクラスも調べてみた。それでも見つからず、結局一学年全部の名簿に目を通した。
――皆川清樹という生徒は、どこにもいなかった。
翌日も俺は探し続けた。一つ一つのクラスを当たり、怪訝な顔をされるのも構わず清樹の名を知らないかと片っ端から訊ねてみた。決まって答えはNOで、実際にロッカーも下駄箱も、どこにも清樹の存在の欠片さえ見つけることができなかった。
俺の不安は絶望に変じた。
(清樹が何者でもいい。ただ俺にだけ、その姿を見せてくれれば……)
そんな願いも虚しく、清樹の存在は俺の周りからすっかり消えて失くなってしまった
(たとえ誰もが清樹を忘れてしまったとしても、俺だけは忘れない。忘れられるはずがない……)
清樹のいない日々は俺にひたすら苦しみのみを与え続けた。何も手に付かず、学校へ行っても授業は頭に入らないし、部活へ出ても記録は落ちる一方だった。
日々に埋没されながら、それでもあの愛しさとこの苦しみが消えることは決してない――そう、思っていたのだが。
ふと、気づくと清樹のことを忘れている瞬間がある。
(なんでだ!?)
清樹の記憶が俺の中から急速に失われようとしていた。俺はそんな自分が許せず、自分を責めた。
文字に書き残してみようともした。日記などつける柄でもないが、時間を見ては清樹と出会ってからのことを書き連ねてみた。だが、それらの文字はいつの間にか消えてなくなっているのだ。
消えた文字に、とてつもないことが起こっているらしいと判って戦慄したものの、しばらく経つとその恐怖も、俺から清樹を奪う何かに対する憤りさえも忘れかけている。
あの日、この腕に抱いた華奢なラインさえ忘れそうになって……。
――そんなのは嫌だッ!!
夜中にハッと目覚めて、清樹の名さえ思い出せないまま、あまりの胸苦しさに息も止まるかと思ったことさえあった。だが誰も知らず、今どこにいるのか、本当にいたのかさえ判らない存在に対して、ごく当たり前の高校生でしかない俺に一体どれだけのことができるというのか。
「…清樹……清樹…っ……」
忘れたくない。彼を失いたくない。
何度も何度もその名を呟いたが、それでも彼が失われていくのを止めることができない。
(清樹がどこの誰でもいい、誰と関係していてもいい。ただそこにいてくれさえしたら……)
このまま二度と会えないのだろうか。そう考えるとゾッとした。
どこを探したらいいのか万策尽きて俺が向かったところは、清樹と初めて出会ったプールだった。
プールサイドで、俺は堪えきれずに涙した。
「清樹……戻ってきてくれ。何でもお前の言う通りにする、お前のしたい通りにさせてやる。俺の命をくれてやっても構わないから……お前を俺の中から消してしまわないでくれ……」
揺らめく水はあの日のままで、なのに清樹の喪失だけが違っているのだった。
清樹のことで俺の頭が一杯になっている間にも、周りは確実に動いていた。
清樹のいない7月が瞬く間に過ぎていく。散々な結果の期末試験も終わり、夏休みがやってきた。
休み中も、どうしても帰省しなければいけない者以外は部活があった。6月の予選会を通った者が出場するブロック大会が7月中にあったが、そこに俺の名はなかった。本来なら清樹が出ているはずだから当然なのだが、突然あるべき名前がなくなっていることに、監督も部員達も驚いて抗議を申し出た。しかし俺がブロック体会に出た記録がない上に、俺自身にすっかりやる気がなくなっていたのでどうしようもなかった。
俺は夏休みに入ってすぐの合宿にも参加しなかった。寮から離れて自宅へ戻ることは清樹から離れることのように感じられ、俺は何をするでもないのに寮へ居残っていた。
寮で賄いをしてくれるおばさん達は、俺が大会に向けて寮に居残っていると勘違いしているようだったが、俺は特別それを訂正しなかった。常に厨房にいるおばさん達に、俺が最近まったく泳いでいないことなど知る由もない。
俺がここにいるのは、ただ清樹のためだけだった。
憔悴しきって食も細り、日増しに健康を損ねていく俺を、同室の青柳はしきりと心配した。だが食べようとしても食事が喉を通らないのだ。
「内海、ちゃんと実家に帰るんだぞ? 家で旨いもんいっぱい食べさしてもらって、9月には元気な姿を見せろよ!?」
何度も言い含め、後ろ髪を引かれるように青柳は帰省していった。
寮からは潮が引くように人気がなくなっていった。俺以外にも寮に残っている者はいるが、どっちみち盆には一旦寮は閉じられるので、一度は帰らないわけにはいかない。だが俺はギリギリまでここにいたかった。
待っていて清樹が来る可能性はないかもしれない。それでも、どんなに薄い可能性でも俺はそれに縋るより他なかったのだ。
静かな寮で、俺は嫌でも様々なことを考えた。時に、清樹のことは俺の妄想でしかなく、俺はとうに狂人になってしまったのではという思いに囚われることもあった。
それでも俺は想い続け、待ち続けた。――待つことしか、できなかった。
「今夜半から風雨が強まり……」
俺は部屋で一人、テレビの天気予報を聞いていた。今夜はあの晩のような嵐になるらしい。
あの時も俺は苦しんでいた。だが今よりはずっと幸せだった。手の届くところに清樹がいたのだから。
こうしてここにいて、果たして清樹は俺の元に帰ってきてくれるのだろうか?
記憶が薄れるに伴って、清樹の存在が遠くなる。今だって、あの日を予感させる雨音がなければ、また清樹のことを忘れてしまいそうなくらいだった。何かが足りないような、大事な物をどこかに置き忘れてきてしまったような、まんじりともしない気持ちがあるだけで、気を抜くとすぐ日常に埋没してしまいそうになる。
「清樹」
俺は口にしてみた。
「清樹、清樹……。清樹、お前、どこに行っちまったんだ? どうして俺の前からいなくなっちまったんだ?」
俺はここにいない者へ語り続けた。
「清樹がいないと俺は苦しいよ。息をしてるのが辛いよ……清樹……」
窓を叩く雨音が次第に強くなっていく。風が窓の桟を揺らし、部屋の温度がふいに低くなったように感じられた。
と、突然電気が消えた。
何が起こったのか判らず、俺は口を開けたまま周囲を見回す。カーテンを開けたままの窓に、ぼんやりと白い影が見えた。
「――清樹!!」
俺は大声で叫ぶと勢いよく立ち上がった。
もう二度と離すまいと、必死の思いで俺は清樹をきつく抱きしめた。
清樹は冷えた手を俺の背に回し、俺の想いに応えてくれた。
「全然学校に出てこなくなっちまって、一体どうしてたんだよ!?」
だが何を訊いても静かに微笑するばかりで、答えてはくれない。
「まあ、でもいいんだ。清樹が来てくれただけで…俺は……」
どこか哀しげな形に結ばれた清樹の唇へ、俺は自分のそれを重ねた。
――幸せな一夜だった。
腕に抱いた清樹はまるで俺の一部のように自然に繋がり、そこは貪欲に大量の精を飲み込んだ。俺は清樹に溶かされながら、どうか清樹が再び消えてしまいませんようにとそればかりを願っていた。
なのに、必死の願いも虚しく朝になると疲れ果てた俺を残して清樹はいなくなっていた。
(俺の苦しみに終わりはないんだろうか……)
精根尽きて死んだようにベッドへ横になりながら、俺は清樹のことのみ考え続けた。
それでも俺は、それ以前に比べればずっと幸せだった。清樹が、雨の晩だけとはいえ姿を見せるようになったからだ。
夜、雨が窓を叩くほどに降り始めると、清樹は現れた。そうして俺の腕の中でしなやかな肢体を仰け反らせ、淫靡な吐息でもって俺を狂わせた。
俺は雨の晩を心待ちにするようになった。俺が強く望めば望むほど、雨は降りやすくなるようだった。
何故そんなことが起こるのかといった疑問は、既に俺の中から綺麗さっぱり消えていた。俺はひたすら清樹のことだけ考え、彼が来てくれるように雨を請い願った。
雨の降らない晩は、躰は楽だが気持ちが酷く辛かった。
その日は二晩続けて雨が降り、俺はだるさで食事も摂らずにベッドで過ごしていた。
「内海ィ、お前まだ帰省してなかったんだってー!?」
そこへ突然青柳が戻ってきた。実家がそう遠くない青柳は、遊びがてら俺を心配して様子を見に来てくれたらしい。
が、一歩部屋へ入った途端に驚いた声を上げた。
「内海ッ! どうしたんだよ、お前!?」
その声は泣きそうで、俺は初めて聞く青柳のそんな声に何だかおかしくなった。
力無く笑った俺の目に、青柳の本気で泣きそうな顔が映った。
「待ってろ、今……」
(どうしたんだ? あいつ……)
慌てて縺れそうな足取りで青柳が部屋を飛び出していくのを目の端で見送りながら、俺は再び目を閉じた。
校医が呼ばれ、自分で起き上がることのできなかった俺は、校医と青柳に両脇から抱えられるようにして一般の病院へ連れて行かれた。
「一度精密検査を受けることをお勧めします」
医者は重い口調でそう告げた。
俺は自分がすっかり軽くなり、腕も足も細ってしまったことに気づかされた。
「とにかく一度、家に戻れ」
寮へ帰る車の中で校医は俺にそう命じたが、俺はうなずけなかった。
――清樹のために死ねるなら、本望だ……
「盆には帰ります。それまで、あと少しだけ……」
まだ若い校医は渋い顔をしながらも、頑として聞き入れない俺に諦めたようだった。ただし、三度三度の食事を一緒にすることを約束させられた。
俺はまだ清樹に会えるのだとそのことばかりを喜んだ。既に俺にとって、それ以外のことはどうでも良くなっていたのだった。
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